45歳|大正15年・昭和元年(1926)
4月、早稲田大学文学部講師となり、東洋美術史を講義する。
50歳|昭和6年(1931)
2月、早稲田大学文学部教授となる。
52歳|昭和8年(1933)
5月、『法隆寺法起寺法輪寺建立年代の研究』を刊行する。
53歳|昭和9年(1934)
文学博士の学位をうける。
10月、早稲田大学恩賜館に東洋美術研究室を開設し、長年蒐集した東洋美術資料を展示する。
54歳|昭和10年(1935)
7月、東京市淀橋区下落合3丁目の通称目白文化村に転居する。
56歳|昭和12年(1937)
2月、熱海雙柿舎構内に「逍遙先生筆塚」の碑を建立。
57歳|昭和13年(1938)
4月、早稲田大学文学部に藝術学専攻科を設置し、主任教授となる。
59歳|昭和15年(1940)
5月、歌集『鹿鳴集』を刊行する。
60歳|昭和16年(1941)
5月、銀座鳩居堂にて近作書画展を開催。
8月、書画図録『渾齋近墨』を刊行する。
61歳|昭和17年(1942)
4月、新薬師寺「ちかづきて」歌碑建立。
10月、随筆集『渾齋随筆』を刊行する。
62歳|昭和18年(1943)
10月頃、「かすがのに」の歌碑建立(現・春日大社神苑内)。
63歳|昭和19年(1944)
2月、昭和8年より秋艸堂にて、身辺の世話をする高橋きい子(義妹)を養女とする。
9月、歌集『山光集』を刊行する。
64歳|昭和20年(1945)
4月、早稲田大学教授を辞任する。
空襲により罹災し、新潟県北蒲原郡中条町の丹呉康平宅に寄寓する。
7月10日、養女きい子病没する。(享年33歳)
























