會津八一について
會津八一といえば、奈良の古跡古美術を詠んだ歌人として知られていますが、古刹と知られる寺院を中心に歌碑が建立されています。現在、奈良県内には15基の自筆歌碑が建立されています。
奈良県エリア
新薬師寺
- 建立年
- 昭和17年4月26日
- 建立場所
- 奈良市高畑福井町1352
- 出典
- 『南京新唱』「南京新唱」詞書〈香薬師を拝して〉
- 歌作年
- 明治41年8月~大正13年
- 建立者
- 嶋中雄作
- 石材
- 仙台石
- 制作者
- 新谷伝重郎信正
- ちかづきて あふぎみれども みほとけの
みそなはすとも あらぬさびしさ - み仏(香薬師)に近づいて仰ぎ見るけれども、自分をごらんになっているとも思えぬこのさびしさよ。

新薬師寺は、華厳宗の別格本山。747年(天平19)3月に光明皇后が聖武天皇の病気全快を祈って創建したとされています。香薬師像は、奈良時代前期、白鳳時代の金銅像。高さ73センチメートル。1943年(昭和18)に、3回目の盗難に遭い、所在は不明です。1942年(昭和17)自詠自筆歌碑で最初に建立されました。
春日大社万葉植物園
- 建立年
- 昭和18年秋
- 建立場所
- 奈良市春日野町160
- 出典
- 『南京新唱』「南京新唱」詞書〈春日野にて〉
- 歌作年
- 明治41年8月~大正13年
- 建立者
- 會津八一
- 石材
- 飛鳥石
- 制作者
- 喜多桝太郎
- かすがのに おしてるつきの ほがらかに
あきのゆふべと なりにけるかも - 春日野に照りわたる月光は隈なく澄んで、まさしく秋の夕べとなったのだなあ。

春日野は、奈良の春日大社の境内から東大寺・興福寺へかけてひろがる、平城京東郊の台地。春日大社は、768年(神護景雲2)勅命により、左大臣藤原永手がその氏社として創建したといいます。神聖な社の一部を「神苑」として公開しています。八一自らが制作した歌碑で、幾度かの移動の後、現在の地に建立されました。
唐招提寺
- 建立年
- 昭和25年中秋
- 建立場所
- 奈良市五条町13-46
- 出典
- 『南京新唱』「南京新唱」詞書〈唐招提寺にて〉
- 歌作年
- 明治41年8月~大正13年
- 建立者
- 會津先生古稀祝賀会増田徳兵衛
- 石材
- 松香石
- おほてらの まろきはしらの つきかげを
つちにふみつつ ものをこそおもへ - 大寺(唐招提寺)の丸い柱が月の光をうけ地上に影を落とし、その影を踏みながら懐古の思いに浸っている。

唐招提寺は、律宗の総本山。唐僧鑑真が759年(天平宝字3)に当寺を創建しました。金堂は、宝亀年間(770‐781)の造営とする説が有力で、奈良時代の金堂建築としては現存する唯一のものです。歌碑は、1950年(昭和25)古稀記念に建立され、ひそかに八一の遺骨が分骨されています。
東大寺歌碑
- 建立年
- 昭和25年10月12日
- 建立場所
- 奈良市雑司町406-1
- 出典
- 『南京新唱』「南京新唱」詞書〈東大寺にて〉
- 歌作年
- 明治41年8月~大正13年
- 建立者
- 會津先生古稀祝賀会
- 石材
- 北木石
- 制作者
- 喜多桝太郎
- おほらかに もろてのゆびを ひらかせて
おほきほとけは あまたらしたり - ゆったりと両手の指をお開きなる大仏はその徳を宇宙に広く満ち広げておられるのだ。

東大寺は、華厳宗の総本山。寺号は、平城京の東方に造建された大寺であることに由来します。南都七大寺の一つ。743年(天平13)、聖武天皇が発願した寺院で、二度の兵火で多くの建物を焼失しました。大仏は、盧舎那仏像で747年(天平17)に発願され752年(天平勝宝4)に開眼供養会が行われました。現存する大仏は、炎上後、補修されたもの。歌碑は、1950年(昭和25)古稀記念に建立されました。
法輪寺
- 建立年
- 昭和35年11月15日
- 建立場所
- 奈良市生駒郡斑鳩町三井1570
- 出典
- 『南京新唱』「南京新唱」詞書〈奈良博物館にて〉
- 歌作年
- 明治41年8月
- 建立者
- 井上慶覚
- 石材
- 生駒石
- 制作者
- 喜多桝太郎
- くわんのんの しろきひたひに やうらくの
かげうごかして かぜわたるみゆ - 観音の白い額にうつる瓔珞の影をゆりうごかして、風の吹きわたるのが見えるようだ。

法輪寺は『寺家縁起』で、622年(推古30)聖徳太子の病気平癒を願い建立されたと伝えられる寺院。平安時代に隆盛したものの、中世には傾き、1645年(正保2)の大風で金堂、講堂が倒壊(江戸中期復興)。1944年(昭和19)には雷火で三重塔が焼失しています(現存の塔は1975年(昭和50)復元再興)。十一面観音菩薩立像は、平安時代制作、杉の一材からなる木造。像髙360センチメートルの巨像で来歴は不明。八一が歌を詠んだ頃は帝室奈良博物館に寄託されていました。
法華寺
- 建立年
- 昭和40年11月3日
- 建立場所
- 奈良市法華寺町882
- 出典
- 『南京新唱』「南京新唱」詞書〈法華寺本尊十一面観音〉
- 歌作年
- 明治41年8月~大正13年
- 建立者
- 入江泰吉・光枝
- 石材
- 庵治石
- 制作者
- 石田忠一
- ふぢはらの おほききさきを うつしみに
あひみるごとく あかきくちびる - 藤原の大后の生身のお姿を、まのあたりに見るようなその赤き唇よ。

法華寺は、門跡尼寺で光明皇后が745年(天平17)に宮寺としました。平安京遷都以後は衰退、復興が幾度かあり、現在の形となりました。十一面観音菩薩立像は法華寺の本尊。像高1メートル。光明皇后の姿を模した、という伝承をもありますが、制作は平安時代前期と見られています。これについて、八一も注釈や随筆で言及しています。
秋篠寺
- 建立年
- 昭和45年
- 建立場所
- 奈良市秋篠町757
- 出典
- 『南京新唱』「南京新唱」詞書〈秋篠寺にて〉
- 歌作年
- 明治41年8月
- 建立者
- 東京・某氏
- 石材
- 生駒石
- 制作者
- 大石恒義
- あきしのの みてらをいでて かへりみる
いこまがたけに ひはおちむとす - 秋篠寺を出て、後を振り返ってみると、生駒山に日がまさに落ちようとしている

秋篠寺は、奈良市秋篠町にある寺院。奈良末期、780年(宝亀11)の創立と伝えられています。1135年(保延元年)に一山炎上したといい、現在は鎌倉初期に再建された本堂のみ残っています。八一が訪れた頃、本堂の仏像の多くが帝国奈良博物館(現・奈良国立博物館)に寄託されていました。
海龍王寺
- 建立年
- 昭和45年
- 建立場所
- 奈良市法華寺北町897
- 出典
- 『南京新唱』「南京新唱」詞書〈海龍王寺にて〉
- 歌作年
- 明治41年8月~大正13年
- 建立者
- 東京・某氏
- 石材
- 生駒石
- 制作者
- 大石恒義
- しぐれのあめ いたくなふりそ こんだうの
はしらのまそほ かべにながれむ - しぐれの雨よ、ひどく降ってくれるな。この金堂の柱の真赭がとけて、壁に流れてしまうから。

海龍王寺は、隅院(角寺)とも称せられています。光明皇后の立願にて建立。光明皇后が僧玄隈の入唐求法の安全を祈り、ここで《海龍王経》を読んだのに起因すると伝えられます。八一が歌を詠んだ明治から大正にかけて、海龍王寺は無住寺で、当時の奈良を偲ばせます。
般若寺
- 建立年
- 昭和45年
- 建立場所
- 奈良市般若寺町221
- 出典
- 『南京新唱』「南京新唱」詞書〈奈良坂にて〉
- 歌作年
- 明治41年8月~大正13年
- 建立者
- 東京・某氏
- 石材
- 生駒石
- 制作者
- 大石恒義
- ならざかの いしのほとけの おとがひに
こさめながるる はるはきにけり - 奈良坂の路傍に立つ夕日地蔵の顎から小雨が流れている、春が来たのだなあ。

般若寺は、奈良市にある真言律宗の寺。寺の北は奈良坂、南はかつて般若坂が奈良山の東方に位置しています。創建に関しても異説が多いものの、奈良後期になんらかの寺院があったといわれます。1180年(治承4)、平重衡による南都焼き討ちにあい、その後しばらくは廃寺同然となっていましたが、鎌倉時代以降、復興し、貧者・病者救済などの社会事業を行っていました。
日吉館(旧碑)
- 建立年
- 昭和49年4月8日
- 建立場所
- 奈良市登大路町59飛鳥園
- 出典
- 『南京餘唱』詞書〈奈良のやどりにて〉
- 歌作年
- 大正14年
- 建立者
- 田村キヨノ
- 石材
- 花崗岩
- 制作者
- 志摩辰一
- かすがのの よをさむみかも さをしかの
まちのちまたを なきわたりゆく - 春日野の夜が寒いからであろうか、鹿が町の通りを鳴きわたってゆく。

日吉館は、大正初め頃に創業した奈良の名物旅館。1983年(昭和58)に一度廃業した後、有志の力によって1995年(平成7)まで営業が続けられました。八一が揮毫した看板が目印で、奈良を愛する多くの学者、芸術家らが定宿にしていました。現在、歌碑は同じ短歌が刻まれている新碑とともに、飛鳥園邸内に建立されています。
原家
- 建立年
- 昭和54年5月16日
- 建立場所
- 奈良市生駒郡斑鳩町法隆寺1丁目
- 出典
- 『南京新唱』「南京新唱」詞書〈夢殿の救世観音に〉
- 歌作年
- 明治41年8月~大正13年
- 建立者
- 原玉泉
- 石材
- 萬劫石
- 制作者
- 太田重喜
- あめつちに われひとりゐて たつごとき
このさびしさを きみはほほゑむ - 天地の間に、われひとり立っているかのようなこの寂しさを、あなたは超然として微笑んでおられる。

法隆寺は、聖徳宗の大本山。斑鳩寺ともいいます。推古天皇・聖徳太子創建の七ヵ寺、また南都七大寺の一つ。伽藍は西院と、夢殿を中心とする東院の二つに区画されます。夢殿は、聖徳太子の斑鳩宮の旧地といわれ、739年(天平11)頃建立、1230年(寛喜2)に八角堂の現形となりました。堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像が安置されています。観音菩薩立像は、飛鳥時代制作のクスノキの一木造に金箔で仕上げられている秘仏です。
日吉館(新碑)
- 建立年
- 平成3年1月15日
- 建立場所
- 奈良市登大路町59飛鳥園
- 出典
- 『南京餘唱』詞書〈奈良のやどりにて〉
- 歌作年
- 大正14年
- 建立者
- 富田節子
- 制作者
- 飛鳥建設
- かすがのの よをさむみかも さをしかの
まちのちまたを なきわたりゆく - 春日野の夜が寒いからであろうか、鹿が町の通りを鳴きわたってゆく。

同詠の旧碑の文字が見えにくくなったため、日吉館に新たに建立されました。現在は旧碑とともに飛鳥園に建立されています。飛鳥園は、奈良市登大路町の古美術写真業社。1922年(大正11)、朝日新聞社に在籍していた写真家・小川晴暘が仏像など文化財の撮影を行うために創業。その後八一も監修に参加した『室生寺大観』、研究誌『東洋美術』を刊行しています。
猿沢池前
- 建立年
- 平成10年7月22日
- 建立場所
- 奈良市橋本町
- 出典
- 『南京新唱』「南京新唱」詞書〈猿澤池にて〉
- 歌作年
- 明治41年8月
- 建立者
- 奈良セントラルライオンズクラブ
- 石材
- 黒御影石
- 制作者
- 中部豊
- わぎもこが きぬかけやなぎ みまくほり
いけをめぐりぬ かささしながら - 衣掛柳を見たいと思って傘をさしながら、猿沢の池のほとりを歩いたことだ。

猿沢池は、周囲約400メートルの池。『大和物語』に平城天皇の寵愛が衰えたことを嘆いた采女が身を投げたことが記されています。池の南東には采女が入水するときに着物を掛けたと伝えられる衣掛柳、北西には采女神社があり、八一は、この伝説をもとに歌を詠んでいます。
薬師寺
- 建立年
- 平成11年9月19日
- 建立場所
- 奈良市西の京町457
- 出典
- 『南京新唱』「南京新唱」詞書〈薬師寺東塔〉
- 歌作年
- 明治41年8月~大正13年
- 建立者
- 秋艸会
- 石材
- 伊予青石
- 制作者
- 大石文彦
- すゐえんの あまつをとめが ころもでの
ひまにもすめる あきのそらかな - 薬師寺東塔の水煙に彫られた天女たちを下から見上げていると、その天女の袖や袂の隙間からも、青く清々しい秋の空が見えるなあ。

薬師寺は、法相宗大本山で、南都七大寺の一つ。680年(天武9)天武天皇が皇后の病全快を祈って建立を発願されました。三重塔の東塔以外は火災、倒壊など度々被害に遭っています。水煙とは、仏塔最上層の屋頂に立つ最上端部のことをいい、飛天の彫刻がなされています。
興福寺
- 建立年
- 平成19年3月31日
- 建立場所
- 奈良市登大路町48
- 出典
- 『南京新唱』「南京新唱」詞書〈興福寺をおもふ〉
- 歌作年
- 明治41年8月~大正13年
- 建立者
- 興福寺 會津八一歌碑建立の会
- 石材
- 生駒石
- 制作者
- 中造園
- はるきぬと いまかもろびと ゆきかへり
ほとけのにはに はなさくらしも - 春がやってきた。今頃は人々が興福寺の庭を行きめぐり、仏のおられる庭には、桜の花が咲き乱れていることであろう。

興福寺は、法相宗の大本山。南都七大寺の一つ。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺。1180年(治承4)平氏の南都焼討ち、明治維新後の廃仏毀釈など多くの災難にあいましたが、その度に再建が繰り返されています。現在の堂塔は多くの国家建造物が並び、仏教美術の名品を所蔵する寺院として知られています。




















