2009年10月30日
医学者と八一
当館特別展「會津八一と越の学び舎」に併せて、現在、新潟大学あさひまち展示館では「中田瑞穂・高野素十作品展」を連動して開催しています。會津八一と交流があり、大学医学部の教員であった中田瑞穂・高野素十両氏の俳句書作品を中心に展示。先日、展示館主催による講演会と解説会が行われ聴講してきました。
講演会では、展示作品の一部を所蔵する医学部卒業生が中田・高野両氏の人と作品についてスライドを交えながら解説され、大変興味深い内容でした。例えば、江戸・明治時代の医師たちや中田瑞穂が描いた、医学の神様・ヒポクラテスの肖像画とヒポクラテスの誓いの英文入り書画を紹介。いずれも独特なタッチと個性あふれる肖像画でした。描く人によってヒポクラテスの捉え方も違う面白さを実感。中でも中田瑞穂が描いた作品(現在当館で展示中)は、迫真にせまるヒポクラテス像で迫力を感じます。
高野素十については、法医学者としての業績よりも俳人としての活躍が目立ったこと。高浜虚子を師に仰ぎ、俳人・山口誓子(やまぐち・せいし)、阿波野青畝(あわの・せいほ)、水原秋桜子(みずはら・しゅうおうし)とともに名前の頭文字を取って『ホトトギス』の四Sと称された。素十の詠んだブラジルでの俳句も、どことなく日本的な風景を感じるといったお話が印象的でした。
本業は医師でありながら、俳人として・画人として文芸にも秀でていた中田瑞穂と高野素十。彼等の生き方の根本にあるのは、ヒポクラテスの言葉にある“生命は短く、技芸が長い”にあるのではないでしょうか。この二人と八一が本業を超えて意気投合したのも頷けます。
鉢蓮の前に秋艸道人と(中田みづほ)
八朔は歌の博士の誕生日(高野素十)
展覧会もあと1カ月。まだご覧になられていない方は、ぜひ当館とあさひまち展示館に足を運んでみてはいかがでしょうか。(学芸員・喜嶋)
2009年10月23日
新潟大学学長と八一
当記念館から徒歩で約15分のところに、會津八一が昭和21年から亡くなる31年までの晩年10年間を過ごした「北方文化博物館分館」(新潟市中央区南浜通)があります。この分館の隣に住んでいたのが、のちの新潟大学学長となる伊藤辰治でした。辰治の父・伊藤九郎太(大地主伊藤家六代目文吉の弟)は、八一の新潟中学、早稲田大学の二年先輩にあたります。辰治と八一とは隣人同士として日ごろから往き来し、また手紙などで親交を深めていました。辰治の日記には、八一との往来を示す事柄が記されています。
昭和22年1月10日 胃痛を訴えられたので見舞う
2月24日 大便を検査したら血液反応陽性に出たので柴田教授の診察を受け大腸カタルと診断され心配ないとのこと
23年12月1日 表札を書いていたゞく
25年1月29日 中田、高野素十両先生と共に最近の書を見せていただく
26年5月21日 夜数名の学生来訪、帰える時多少酔ってもいたし暗夜であったので誤って先生愛玩の草花の鉢をこわす(翌朝自分のしたことゝしてお詫びした。叱るわけにもいかなかったらしい)
29年4月21日 医学部長室にかける大額の揮毫をお願いす
31年1月 3日 新年の挨拶す。
など、体調面での相談、八一書作品の見学、さらには揮毫依頼など、八一が亡くなる年まで綴られており、公私ともに信頼していた間柄だったことが窺われます。
本特別展では、日記に関連した作品資料を中心に展示しています。例えば、昭和23年八一から書いてもらった表札「伊藤辰治」。実は過去2度、八一書の表札を学生に失敬されてしまい、本展示の表札は3度目のものです。さらには、八一が亡くなった時、辰治執刀による解剖が行われ、動脈硬化症が病因であるという辰治が診断した原稿も紹介しています。お見逃しなくご覧ください。
(学芸員・喜嶋)

會津八一書「伊藤辰治」
昭和23年11月29日 (新潟市會津八一記念館蔵)
2009年10月16日
直木賞作家と八一
前回、ご紹介した名物教師・植村清二には旧制新潟高校での教え子の一人に、小説家・綱淵謙錠(つなぶち・けんじょう 1924-1996)がいました。綱淵は、昭和18年旧制新潟高校に入学。当時、植村から東洋史と西洋史を教わりました。昭和20年2月、高校卒業直前に陸軍に入隊。復員後、新潟で数年職を転々とします。昭和28年、東京大学文学部英文科を卒業後、中央公論社に入社。昭和46年退社して作家生活に入ります。昭和47年、首斬り浅右衛門一家の末路を通して幕末から維新を描いた『斬』により、直木賞を受賞しました。実は、直木賞作家綱淵が苦しい生活を送っていた青年時代、八一と親しく交流を結んでいたのでした。
綱淵と八一との出会いは、昭和22年7月、八一の甥・中山共之を通じて知り合います。中山は、綱淵と旧制新潟高校の同学年として寮生活を送った仲間でした。八一と知り合ったころの綱淵は、東大の学費の仕送りが支援者からストップされてしまい、大学を中退、失意のどん底状態でした。綱淵の回想録によると、初対面の八一に対して「先生にお目にかかって感じた気楽さの有難みに、先生との縁をその一夜だけに終わらせてはならない」と思ったそうです。それからの綱淵は、心に鬱屈があるときは、八一の自宅を訪問し、近況報告を欠かさなかったのでした。
現在、特別展では綱淵と八一との交流を示す書簡4通を展示しています。中でも、昭和27年、綱淵が中央公論社の入社試験を受験した際、世話した八一に対して試験問題の内容を克明に報告した手紙は必見です。例えば、
一.次の事柄につき所見を述べよ。
①米國大統領選擧の結果について
②左右社會党統一の可能性とその是非
二.次の事柄を簡單に説明せよ。
①朝永振一郎(ふりがなもつけよ) ②ガット
③偽らぬ日本史 ④チビオン ⑤経営協議會 などです。
当時の社会状況を鑑みるよい機会です。皆さんもぜひこの入社試験にチャレンジしてみてはいかがでしょうか?
(学芸員・喜嶋)
會津八一書簡 綱淵謙錠宛
(新潟市會津八一記念館蔵)
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2009年10月 9日
2009・10・9
先週3日(土)、現在開催中の特別展関連の講演会が行われ、講師に植村鞆音(うえむら・ともね)氏(エッセイスト)をお招きしました。植村氏は直木賞の由来となった作家・直木三十五の甥であり、旧制新潟高校や新潟大学の名物教授・植村清二のご子息です。講演会では身内側から見た伯父と父親の生き方についてエピソードを織り交ぜながら語って頂きました。
直木三十五は、早稲田大学英文学科に入学したものの、佛子寿満(ぶっし・すま)と同棲し次第に月謝未納で中退。それでも授業は受け続けた。同級生が卒業する際、中退したはずの直木が卒業写真に写っていたという面白い話がありました。これは、直木の父親が息子の大学卒業を楽しみにしていたようで、同級生の鷲尾雨工(小千谷市出身)や青野李吉(佐渡市出身)らの計らいで、撮影する瞬間、後列にそっと直木を参列させたのでした。また作家としての直木は、10年間に700篇の作品を仕上げるほど執筆が早く、内容より数とスピードを誇っていたそうです。43歳という短い人生でしたが、これだけユーモラスな人生を送った作家はいないでしょう。
一方、父・植村清二については、小学生の時から読書家で中学生のころから、歴史に関心を持っていたそうです。講演会では、清二が中学生時代に書いた夏休みの日記帳を公開。まるで活版印刷のような几帳面な筆文字でした。表紙裏には「生きる為に学び、学ぶために生きよ」と清二の直筆による日本語とドイツ語で記されており、生涯のモットーにして貫いたそうです。中学生とは思えないほどの学識の高さが伺われます。清二は歴史家として、世の中の流れを学生に教えていたわけですが、自分の人生も中学生のころから見定めていたのでしょうか。大変興味の尽きない講演でした。
(学芸員・喜嶋)

植村鞆音氏の熱演

植村清二の日記(上下とも)
2009年10月 2日
山下清、會津八一、そして「慈愛」
スポーツの秋、芸術の秋と秋真っ盛りの今日この頃。新潟県では先月26日からトキめき新潟国体が開催されています。国体のマスコットキャラクターとなったのが、新潟の県鳥で特別天然記念物の「朱鷺」。一昨日、トキの放鳥が佐渡で行われました。放鳥場所は佐渡市新保正名寺で、この地域は‘裸の大将’こと山下清の母親の出身地だったのです。新潟と山下清、意外なところで繋がりがありますね。
不思議な縁といえば、清と八一もありました。八一は教え子の戸川行男(当時早稲田大学講師、心理学専門)の紹介で清と知り合います。戸川は、式場隆三郎よりもいち早く清の張り絵の才能を見出しました。昭和13年、戸川は大隈講堂で、清を中心とする八幡学園園児たちの作品展を企画します。この展覧会で、多くの美術家たちが衝撃を受けたそうです。期間中、大隈会館で特異児童座談会も開催。その中には、八一や式場隆三郎も出席していました。また八一は戸川と一緒に八幡学園を訪問。清たち園児の張り絵を興味深く見学しました。「踏むな、育てよ、水そそげ」という久保寺園長の教育目標に感銘した八一は、園長の好きな言葉「慈愛」を揮毫して贈ったのでした。
本展では「慈愛」の作品と清が学園で制作した張り絵作品も初公開の展示をしています。
(学芸員・喜嶋)

「慈愛」會津八一書(1941年夏・八幡学園蔵)
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