新潟市 會津八一記念館

會津八一記念館ブログ『秋艸日記』

2010年4月30日

仏像展シンポジウム

  「奈良の古寺と仏像‐會津八一のうたにのせて」展開幕を受け、25日には、仏像や會津八一への思いを語りあうシンポジウム「こころの時代」が新潟市のイタリア軒で開催されました。第一部に当館の神林恒道館長による〈歌でつなぐ仏のこころ-會津八一と奈良歌〉と題した基調講演が行われました。講演では、スライドを織り交ぜながら、「(會津八一の)奈良への讃歌が自然と口をついて出て来たのです。そして自分ならではの奈良歌を余人に任せるのではなく、自ら認めようと筆を執ったのです。八一の美術史研究、短歌と書、これすべて愛する奈良への献げものだったのです。推敲に推敲を重ね、自ら舌頭千回と称した八一の歌の調べはまことに美しい。その歌はいながらにして、まほろばの大和の国の御仏のお姿をありありと想いうかべることが出来る呪文のように思われます」と述べ、八一の奈良歌の魅力を解説して頂きました。
 
 
 
その後第2部では〈みほとけの旅、こころの旅〉と題したパネルディスカッションが行われました。女優・檀ふみさんを司会に、東大寺の上野道善別当、法隆寺の大野玄妙管長、薬師寺の山田法胤管主が、仏像と向き合う心構えを披露しました。特に大野管長がおっしゃった、仏様を対峙するその日の心のあり方で、同じ仏でも見方が違ってくるという指摘が心に残りました。つまり御仏は自分の心をうつす鏡ともいえましょう。また、3師から八一の歌を選んで頂きました。
 
【東大寺 上野別当】
おほらかに もろてのゆびを ひらかせて 
おほきほとけは あまたらしたり
 
【法隆寺 大野管長】
ちとせあまり みたびめぐれる ももとせを 
ひとひのごとく たてるこのたふ
 
【薬師寺 山田管主】
すゐえんの あまつをとめが ころもでの 
ひまにもすめる あきのそらかな
 

 やはり、所属する寺をよんだ歌を選んだのもうなずけます。檀さんは、八一の歌について、人々があまり気付かない仏像の美しさを気づかせてくれると評し、「仏様に向かう際、會津先生の歌をそらんじながら拝んだらどうでしょう」と提案されていました。妙案だと思います。八一の歌を手引きに仏像の美しさを味わい、そして感謝の気持ちをもって仏様と向き合う。これまで何気なく見ていた仏様の見方も変わり、きっと心も満ち足りてゆくことでしょう。気忙しい時代に、見失いがちな心の在り方を問う内容でした。

(学芸員・喜嶋)

 

2010年4月25日

ついに開幕

24日から「奈良の古寺と仏像‐會津八一のうたにのせて」展が開幕しました。これまで紆余曲折があったものの、無事に開催することができて、関係者一同安堵し、嬉しいかぎりです。オープニングは朝9時より、新潟県立近代美術館講堂で今期中の安全祈願と震災復興祈願の法要が執り行われました。東大寺別当・上野道善師、中宮寺門跡・日野西光尊師、法隆寺管長・大野玄妙師、元興寺住職・辻村泰善師、薬師寺執事長・村上太胤師、室生寺秘書・佐伯良海師らが合同でお経を挙げて下さいました。
 

 

 

10時から開場式が始まりました。新潟展実行員会・高橋道映委員長(新潟日報社長)を皮きりに、日本経済新聞社・杉田亮毅会長、篠田昭新潟市長、泉田裕彦新潟県知事、森民夫長岡市長ら7人からのご挨拶を賜りました。そして総勢12人でのテープカット。これだけの大人数でのテープカットは初めて見る光景でした。
 
 
 
 その後、奈良の僧侶8人は中越地震で被災した長岡市の山古志地域を訪れ、住民らが見守る中、震災被害者の冥福や復興を祈念し、お経を読まれたそうです。新潟日報の記事によれば、住民の方は供養してくれてありがたい。仏像展を見に行きたいと笑顔を見せたとか。僧侶らの慈悲の心が、山古志の人たちをより一層勇気づけられたと思います。
 
 

 

一方、午後から興福寺貫首・多川俊映師による「“阿美共感”とこころの時代」と題した講演会が美術館講堂で行われました。多川貫首は、昨年東京と九州の国立博物館で開催された「阿修羅展」で190万人を動員し「仏像ブーム」の火付け役となりました。講演会では、三井物産の若王寺支店長が外国で監禁された時、幼いころに見た観音様を思い浮かべて苦境を乗り越えたエピソードを紹介。仏のイメージを具体的に明確に持つと、心が安定する。仏像は人間の心を写す鏡だということを説かれました。
私は、この話を聞いてふと、あることを思い出しました。會津八一が昭和20年7月、胎内市で疎開している時、飛鳥園の仏像写真家・小川晴暘に、法隆寺百済観音、唐招提寺鑑真和上、興福寺十大弟子などの仏像写真を送るよう依頼した書簡があります。苦境の中でも八一は、せめて仏像写真だけでも身近において、心の安寧を保とうとしたのかもしれません。(ちなみに現在、新潟市美術館では、會津八一と小川晴暘展を開催し、上記書簡と晴暘から贈られた写真も展示しています。)当時と同様、現代社会も混とんとした世の中だからこそ、人々は心の安らぎを得るために、仏像のありがたみを感じたのでしょう。大変有意義な講演会でした。
 (学芸員・喜嶋)
 
 

2010年4月24日

奈良の古寺と仏像展開幕

 4月24日、平城遷都1300記念「奈良の古寺と仏像 -會津八一のうたにのせて」新潟展が開幕しました。新潟県立近代美術館、 新潟市會津八一記念館でお待ちしております。記念館blogでも少しずつ情報を掲載したいと思っています。ご期待下さい。

2010年4月17日

市島春城展

 今週は東京へ「奈良の古寺と仏像―會津八一のうたにのせて」展の作品集荷で上京してきました。一昨日、昨日と寒気の影響で大変肌寒い日々でしたが、寒さを乗り越え無事に作業終了。早稲田大学での作業後、大学図書館で開催中の「市島春城展」を見学してきました。今年は初代大学図書館長・市島春城(本名・謙吉、八一の縁戚)生誕150年の節目の年です。早稲田大では、図書館入口前に「春城市島謙吉像」を新たに設置し、また春城の人物について、生涯と業績を広く紹介する機会として今回の展覧会を企画したそうです。

 
春城は、新潟県北蒲原郡下条村(現・阿賀野市)出身。江戸時代から財を成し発展した、市島家の筆頭分家・「角市」市島家の6代目当主として生まれます。東京大学の学生時代に出会った高田早苗、坪内逍遙らとともに東京専門学校の創立に関与、郷里新潟では新聞人として活躍、大隈重信を盟主とした改進党の衆議院議員を務めます。その後は早稲田大学図書館館長を15年間務めました。館長時代の実績というと、就任時に3万冊ほどの蔵書を5年目には10万冊の大台に乗せ、しかも、稀覯本(きこうぼん)の収集にも力を入れ、国宝や重要文化財に指定されている資料など多数を館蔵としたのです。そして資料の積極的な公開を目指し、現在の図書館の姿を確立させました。大学内に留まらず、全国の図書館の充実を勧めるいわば近代図書館の父と言えましょう。
 
春城は、吉田東伍や會津八一の後見人としても知られています。今回の展示品に「春城八十年の覚書」という春城が自らの生涯を振り返り、綴った冊子があります。この中で、
“2人の博士”と題し「自分の陋屋(ろうおく)より二人の博士を出したことハ、聊(いささ)か自ら慰むに足る。一人ハ吉田東伍で、十三年間、地名辞典を完成したので、学位を得、會津八一は余が落合の別荘に十三年間住した間に、学位を贏(か)ち得た、両人共に余の親戚である。」と紹介されていました。春城は、才ある人を惜しみなく後援する度量の大きい人物だったことが、肌で感じました。
 
最後に、八一が昭和27年に図書館へ寄贈した色紙の書
 
むかしわが あしたゆふべに よみつぎし 
ふみなほありて しよこはかなしも
 
も陳列。春城が亡くなった昭和19年に詠んだ短歌です。春城の庇護のもと、早稲田で過ごした若き日々を振り返り筆を執ったのでしょう。展覧会は5月26日までです。ご関心のある方は是非ご覧下さい。
(学芸員・喜嶋)
「市島春城展」ポスターより

2010年4月 9日

いざ越後へ

 「奈良の古寺と仏像―會津八一のうたにのせて」展開幕(24日)まであと2週間余り。今週から、奈良・13カ寺より出陳するみ仏さまの旅支度(作品集荷)が始まりました。

 私は西の京にある唐招提寺から合流。3年ぶりに訪問すると、10年間大修理のために金堂全体を囲っていた足場が、すっかり取り除かれており、落慶した金堂は、桜とともに美しい姿で大勢の観光客を出迎えていました。囲いのない金堂を目にしたのは、学生時代以来です。エンタシスのまろき柱を前に、會津八一の歌碑「おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ」を見つけた時の感動がよみがえりました。そして集荷作業へ移動。美術作業員6人が展示している仏像を慎重に床面へ下ろし、点検作業となります。担当学芸員らが仏像の状態をチェック。破損、欠落、虫食い、色落ち、グラついていないかなど時間をかけて細かく丁寧に調書に書き込みます。ちなみにこの画像は平安時代の木造・十一面観音菩薩立像を梱包している様子と湿度が管理された木箱に入れた状態です。この仏像は、冠帯(かんたい・冠から垂れる飾り帯)瓔珞(ようらく・珠玉を連ねた首飾りや腕輪)などの装飾が本体から直接細やかに彫り出された端正な姿であります。梱包が解かれた暁には、長岡市の県立近代美術館で展示しますので、みなさん是非ご覧ください。
(学芸員・喜嶋)
 
 
唐招提寺での梱包作業
 
落慶した唐招提寺金堂

2010年4月 2日

「よきふみつづれ」を胸に...

 新年度がスタートし、テレビや新聞で入社式の様子が報道されていました。不況で、大学生の就職内定率が80%と過去最低を記録するなど、苦戦を強いられた気の毒な世代だと思います。関門を突破した新社会人の方が希望に胸を膨らませて力強くインタヴューに答えていたのが印象的でした。本日は、會津八一が揮毫した題字を掲げる新潟日報社の新人2人が研修として来館。今展覧会の担当学芸員の説明に、皆さん熱心に耳を傾けていました。また、元社長・西村二郎氏旧蔵の八一作品を目にし、日報社と八一の深い繋がりを感じていたようでした。

戦後、新潟日報社の坂口献吉社長は、新しい時代に相応しい人として、疎開中の會津八一を「夕刊新潟社」の社長就任を懇請します。八一は昭和21年5月、夕刊新潟社(新潟日報社の姉妹社)の社長に就任。創刊号に八一は「夕刊ニヒガタの創刊にのぞみて」と3首を載せます。
 
おしなべて はるこそきたれ みこしぢの 
はてなきのべに もゆるをぐさに
(押し並べて 春こそ来たれ み越路の 
果て無き野辺に 萌ゆる小草に)
 
にぎみたま めざめざらめや ふるさとの 
ひろのにかよふ みづのひびきに
(にぎみ魂 目覚めざらめや 故郷の 
広野に通ふ 水の響きに)
 
わがともよ よきふみつづれ ふるさとの 
みづたのあぜに よむひとのため
(わが友よ 良き文綴れ 故郷の 
水田の畔に 読む人のため)
 
特に、第3首目の「わがともよ」の一首は、新時代を迎えて同僚の新聞記者へ激励のメッセージが込められています。今回の日報新人記者の方々も是非「みづたのあぜ」=米どころ新潟人のために良き記事を綴ってほしいものです。
(学芸員・喜嶋)

展覧会の見学風景


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