新潟市 會津八一記念館

「新潟大学創立60周年記念 會津八一と越の学び舎」平成21年9月19日(土)~11月29日(日)

羽ばたく人材 はぐくむ殿堂 越の学び舎に輝きあれ/會津八一書 「北冥有魚」昭和29年(新潟大学医学部蔵)

早稲田大学名誉教授の會津八一と新潟大学の接点は決して浅いものではありませんでした。旧制医科大学の卒業生、そして教授陣との交流、また旧制新潟高等学校でも講演を行なっています。さらに、戦後の新潟大学設立運動にも協力しました。

會津八一は、1948(昭和23)年「夕刊ニイガタ」の紙上で3回にわたり随筆を発表しています。創設されるべき理想の大学について要望を開陳し、大きな期待を寄せたのでした。

本年、創立60周年を迎えた新潟大学は長い歴史と豊かな伝統を持ち続けた最高学府で、新潟の産業文化を担う人材を輩出してきました。

展覧会では、大学所蔵の美術品とともに、親交のあった大学関係者が所蔵する八一の墨蹟や書簡などを展示します。さらに“はだかの大将”こと山下清のはり絵作品も陳列します。これは、旧制医科大学出身の式場隆三郎が山下清の才能に注目し、清を「日本のゴッホ」として再び世間に知らしめたことによります。また、八一も清らの絵に関心を寄せていました。式場のプロデューサー的な役割も紹介します。

新潟大学と八一を結ぶ縁に連なる誇り高き新潟文化を是非ご堪能下さい。

開催概要

会期:
平成21年9月19日(土)~11月29日(日)
休館日9/28、10/5・13・19・26、11/2・9・16
開館時間:
午前9時~午後5時
料金:
一般500円、大学生300円、高校生200円、小中生100円
※団体20名以上2割引、土日祝日は小中学生無料
会場:
新潟市會津八一記念館
主催:
新潟日報社、BSN新潟放送、新潟市、財団法人會津八一記念館
共催:
新潟大学
協力企業:
淺川園、今成漬物店、大阪屋、里仙、高橋酒造

アクセス

利用案内・アクセスページをご覧ください。

本展の見どころ

1.八一と新大創立運動、大学所蔵品
會津八一書「総合大学を迎へて」(1948 新潟市會津八一記念館蔵)
中原悌二郎刻「若きカフカス人」(1919 新潟大学本部蔵)
安宅安五郎画「砂丘に立つ子供」(1920 新潟大学理学部蔵)

原稿「総合大学を迎へて」(新潟市會津八一記念館蔵)は、1948(昭和23)年「夕刊ニイガタ」に掲載した随筆の原稿です。当時新潟では総合大学の誘致運動が本格化し、期成同盟会が設立されるなど、慌しい状況のなか、八一はこの運動に大きく加担することになりました。この中で、八一は教授の人材確保と設備の重要性を強調し、理想の大学建設のため地域を挙げて協力することを促しています。

中原悌二郎刻「若きカフカス人」(新潟大学本部蔵)は、数少ない中原の代表作。中原が亡くなった後、遺族が旧制新潟高校へ預け、そのまま大学に残されていたそうです。芥川龍之介が、講演会で旧制新潟高等学校を訪れた際、校長室に飾られた「若きカフカス人」を見て、「新潟高等学校、誰かこの中原悌二郎氏のブロンズの「若者」に惚れるものはいないか?この「若者」は未だ生きているぞ」と生徒に檄を飛ばした作品です。

安宅安五郎画「砂丘に立つ子供」(新潟大学理学部蔵)は、1920(大正9)年第二回帝展で特選を受賞しました。その後、安宅本人が旧制新潟高等学校へ寄贈しました。大正時代の新潟の風俗を語る作品として、後世に伝え残さなければならない絵画です。

2.新大教職員や卒業生と八一の交流
會津八一書「素十精舎」(1953 個人蔵)
澤田敬義画・会津八一書「蟹図・江上之清風」(個人蔵)

八一と交流のあった新大関係者は、医学部では中田瑞穂、高野素十、伊藤辰治、澤田敬義、式場隆三郎の各氏、人文学部では植村清二(小説家・直木三十五の弟)や、旧制新潟高時代、植村の教え子で歴史小説家・綱淵謙錠との交流を示す書画作品を展示します。

中でも、俳人としても活躍した高野素十が新潟大学から転出する記念に八一から贈られた書「素十精舎」、八一と澤田の新潟市名誉市民同士の合作は初披露となります。

3.式場隆三郎関係資料
「式場隆三郎と陶器に絵付けする山下清」(1956 「八幡学園」山下清展事業委員会提供)
會津八一「慈愛」(1941 八幡学園蔵)

精神科医、式場隆三郎は幅広い業績を残しました。式場は、旧制の新潟医学専門学校時代、「白樺派」の作家たちに師事、美術にも深い関心を寄せていました。美術に関してはゴッホやロートレック、ゴーギャンなどヨーロッパの画家たちを先駆けて紹介し、精神科医の立場から研究して伝記を書き上げるという偉業を果たします。また柳宗悦ら民芸運動に関わる作家たちとの親交をもちました。さらに、〈裸の大将〉こと、山下清をプロデュースしたことでも知られています。展覧会では、式場と親交のあった民芸作家の作品や山下清の張り絵を展示。また清が所属していた八幡学園にある八一書の「慈愛」も陳列します。

「越の学び舎」新潟大学人物紹介

八一の主治医
中田瑞穂(なかた・みづほ)

1893~1975(明治26~昭和50)

脳神経外科医。島根県津和野町出身。

會津八一と中田瑞穂は、1947、48(昭和22、23)年頃、新潟医科大学の同僚伊藤辰治の紹介で出会っています。八一は初めて中田の画を見たとき、精緻な写生画に驚嘆して、賛辞を送りました。一方、中田は八一の書に傾倒して、「古今を通じて、秋艸道人の書以上のものはない」と語っています。八一が亡くなるまで、主治医として、また学問や芸術のよき理解者として親交を結びました。

1917(大正6)年、東京帝国大学医学部を卒業。大学在学中に水原秋桜子・山口誓子らと東大俳句会で活躍。

1922(大正11)年、旧制新潟医科大学(現新潟大学医学部)に赴任。1924~27(大正13~昭和2)年、欧米に留学、ドイツ・ハイデルベルク大学でエンデルレン教授の外科の考え方に強く影響を受ける。帰国後、新潟医科大学外科学教室3代目主任教授となる。1936(昭和11)年、再度外遊し、アメリカの脳神経外科をH・W・クッシングやW・E・ダンディなどのもとで学び、当時、未開拓の分野だった日本の脳外科の発展に尽くす。

1956(昭和31)年に新潟大学教授を退官。1957~59(昭和32~34)年まで、新潟大学医学部付属脳外科研究施設(現新潟大学脳研究所)初代施設長として研究を続けるとともに、後進の育成に力を注ぐ。1967(昭和42)年、文化功労章、翌1968(昭和43)年に日本学士院会員に選ばれる。

中田は「ホトトギス」の高浜虚子の門下として、新潟移住後も俳人として活躍。1929(昭和4)年より俳誌『まはぎ』を主宰し、新潟の地域文化に貢献した。

元新潟大学学長
伊藤辰治(いとう・たつじ)

1904~1985(明治37~昭和60)

病理学者。中条町(現胎内市)出身。

伊藤辰治の父・伊藤九郎太(大地主伊藤家第6代文吉の弟)は、會津八一の新潟中学、早稲田大学の先輩で親交がありました。八一は1946(昭和21)年、夕刊新潟社の社長に就任する際、疎開先の中条町(現胎内市)から辰治が住んでいた新潟市南浜通の洋館に移り住んでいます。辰治は棟続きの隣棟の日本家屋に住まいを移していましたが、八一とは隣人同士として日ごろから往き来し、また手紙などで親交を深めました。八一が亡くなった時、辰治の執刀による解剖が行われ、死因が動脈硬化症あると判明しています。

1932(昭和7)年新潟医科大学(現新潟大学医学部)入局。恙虫(ツツガムシ)病の研究に専念する。1939(昭和14)年に渡米し、脳病理の研究に視野を広げ、帰国後脳腫瘍を中心とした研究を行う。1951(昭和26)年、新潟大学医学部病理学教授、1953(昭和28)には医学部長に就任。1959~67(昭和34~42)年まで、新潟大学学長に就任。全学統合の機運の盛り上がりに傾注し、道筋を作った。大学の充実発展に努める。

1984(昭和59)年には中条町(現胎内市)名誉町民に推挙される。

“裸の大将”山下清のプロデューサー
式場隆三郎(しきば・りゅうざぶろう)

1898~1965(明治31~昭和40)

精神病理学者。五泉市出身。

式場隆三郎の叔父益平は、新潟中学時代の會津八一の後輩で、益平を通じて隆三郎も幼いころに知り合っています。隆三郎は新潟医科大学時代の1927(昭和2)年、八一を招いて講演会を企画しています。また、隆三郎が編集した雑誌『藝術時代』の題字を八一に書いてもらうなど、交流がありました。

八一の従兄弟會津龍平は、隆三郎の新潟医科大学時代の後輩になります。後に隆三郎が開業した国府台病院の副院長にも就任しています。

新潟県立村松中学校を経て新潟医学専門学校(現新潟大学医学部)卒業。学生時代より雑誌『ホトトギス』などを愛読し、文芸の世界に親しむ。その後、柳宗悦やバーナード・リーチなど、白樺派や民藝運動にかかわる人物と親交を持つ。1929(昭和4)年、「新潟市小學兒童ノ智能基準並ニ劣等兒ノ精神病學的觀察」で医学博士となる。1936(昭和11)年、千葉県市川市国府台に国府台病院(現在の式場病院)を創設した。

文芸や芸術活動と人間の精神的な問題とのかかわりに関心を持ち、ゴッホの研究を進める。1932(昭和7)年、『ファン・ホッホの生涯と精神病』を刊行。この著書で式場はゴッホのてんかん説を主張している。

また、裸の大将こと、山下清の才能に注目し、その活動を物心両面から支え、彼を世間に広く紹介したことで障害児京域に多大な影響を与えた。

「ホトトギス」の4S
髙野素十(たかの・すじゅう)

1893~1976(明治26~昭和51)年

法医学者。茨城県北相馬郡山王村(現取手市)出身。本名は與巳(よしみ)。

高野素十と會津八一は、1949(昭和24)年頃から高野の同僚である中田瑞穂に同行して、八一の自宅に訪問したことで交流が始まりました。現在、八一が高野へ送った書簡は1通、高野が八一へ宛てた書簡は23通残っています。高野の書簡では、自作の句を披露したり、奈良・唐招提寺、東大寺の八一の歌碑を訪ねた報告をしたりするなど、心温まる内容が記されています。中田と同様、高野も八一の学問や芸術のよき理解者でした。

新潟県立長岡中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学医学部に入学。卒業後の同大法医学教室時代に水原秋桜子の手引きで俳句を始め、1923(大正12)年より高浜虚子に師事した。

1935(昭和10)年新潟医科大学(現新潟大学医学部)法医学教授に就任する。1949~1950(昭和24~25)年、学長就任。1953(昭和28)年、定年のため退官。同年、俳誌『斧』を主宰する。退官後は、奈良県立医科大学法医学教授を務める。山口誓子、阿波野青敏、水原秋桜子とあわせて「ホトトギス」の四Sと称される。

旧制新潟高校、新潟大学の名教師
植村清二(うえむら・せいじ)

1901~1987(明治34~昭和62)

東洋史学者。大阪府出身。実兄は作家直木三十五。

植村清二は新潟日報の松井敬を通じて、夕刊新潟社社長の八一と知り合います。植村は、幾度も八一の自宅に訪問し、坪内逍遥、尾崎紅葉、正岡子規とのかわかりについて講釈をうけています。

旧制山口高校を経て東京帝国大学東洋史学科卒業。旧制松山高校、新潟高校、新潟大学人文学部教授を歴任。博大な学識と巧みな話術を駆使する名講義によって多く学生を魅了した。植村の旧制新潟高校での教え子に、小説家綱淵謙錠、丸谷才一、野坂昭如、利根川裕、美術史家中山公男らがいる。

直木賞作家
綱淵謙錠(つなぶち・けんじょう)

1924~1996(大正13~平成8)

小説家・随筆家。樺太出身。本名は綱渕。

綱淵謙錠は、會津八一の甥中山共之の紹介で八一と出会いました。綱淵が中央公論社を受験する際、八一にお願いして、紹介状を貰っています。八一に宛てた綱淵の書簡には、入社試験の内容、感謝の気持ちが綴られています。

1943(昭和18)年、旧制新潟高校に入学。植村清二から東洋史と西洋史を教わる。1945(昭和20)年2月、高校卒業直前に陸軍に入隊。復員後、東京大学に入学するが学費が続かず中退。新潟で数年職を転々とするが、1951(昭和26)年に復学、1953(昭和28)東京大学文学部英文科を卒業、中央公論社に入社。1971(昭和46)年に退社し、以後作家生活に入る。

1972(昭和47)年、『斬』により、第六十七回直木賞を受賞。

グッズ

【図録】會津八一と越の学び舎―新潟大学60周年記念―

財団法人會津八一記念館編 新潟日報事業社刊行
体裁・形態 A4判 92頁 1,000円

(特別寄稿)
安宅安五郎の「砂丘に立つ子ども」と中原悌二郎の「若きカフカス人」
横山秀樹氏(新潟県立近代美術館副館長)
會津八一と新潟大学
野中吟雪氏(新潟大学名誉教授)
(特別エッセイ)
會津八一のこと二話
堀澤祖門師(叡山学院院長・比叡山泰門庵住職)
新潟医科大俳句部入部の頃―戦時下の息抜き―
蒲原 宏氏(俳誌「雪」主宰)

イベント

第1回記念講演会演題「伯父直木三十五と父植村清二」
講師:
植村鞆音氏(エッセーイスト、小説家・直木三十五の甥)
日時:
平成21年10月3日(土) 午後2時~3時30分
会場:
クロスパルにいがた映像ホール
定員:
150人 無料
第2回記念講演会演題「式場隆三郎と山下清」
講師:
神林恒道新潟市會津八一記念館館長
日時:
平成21年11月7日(土) 午後2時~3時30分
会場:
クロスパルにいがた映像ホール
定員:
150人 無料

※1,2回の記念講演会ともそれぞれ往復はがきで当館へお申込下さい。


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